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師匠と弟子

昨日は夫の誕生日だったので、イタリヤ~ンを食べに。安いとこだけどね。プレゼントはCD。これまた安上がりだけど。文句なんか言わさないさ。



話は変わるが、某掲示板で「習い事の先生にお中元・お歳暮を渡したほうがいいか」といった投稿と、それへのレスを見ながらつらつらと考えた。




先週、娘の硬筆教室に私が同行できず、夫に連れて行ってもらった。自宅駅まで/教室最寄駅からは一人で行けるんだけど、電車の乗り方が不安だと言い、未だに一人で行ってくれないのだが、まぁそれは別の話で。

この教室の月謝は現金手渡し。月末のレッスンの時に空の月謝袋をいただき、その次の月初のレッスンの時に中身を入れてお渡しする方式。先週のレッスンがちょうど月初だったので、夫と娘に月謝を入れておくから先生にお渡ししてね、と伝えておいた。

帰宅してから話を聞くと、夫が教室の最寄駅まで連れて行ったら、娘が「駅からは一人で行けるからお父さんは駅で待ってて」と言ったため、そこで別れたのだという。レッスンが終わるまでは、駅前のカフェで時間をつぶしたらしい。

じゃあお月謝はどうしたの、と聞くと、「渡したよぉ」と娘。ちゃんと気が付いて渡せたのは偉いが、どんな風に渡したのかを聞くと「ハイ、お金~」と言いながら片手でヒョイと渡したとのこと。

「あらそう。渡せたのならよかったけど、そういう時はね、先生に向けてちゃんと両手で持って、『今月もよろしくお願いします』と頭を下げてお渡しするのよ」と言った。言いながら、そういうことを教えるのは今回が初めてだなぁ、今までどうしてたんだっけ?と自問自答した。考えてみたら、今までは私から渡していたのだ。他の習い事は自動引き落としだしね。

唯一、手渡ししてる硬筆教室にしても、さすがにお釣りのないようにはしているし、比較的きれいなお札が入手できた時にはよりわけて月謝用にとっておいているけれど、どうしてもきれいなお札が用意しきれなかった時には折り目のついたお札でもそのまま入れてしまい、わざわざ全部を新札で揃えたりはしていない。でも「本来は新札で用意するものだよね」とは思っている。お月謝の熨斗袋は末広に載せて…とまでは思わないし、そこまでの格式を求められる習い事の経験はないが、知識としては知っている。でもいつどこでそういう知識をつけたのかは記憶に定かでない。

自分がこどもの頃習っていた「民謡舞踊」と「三味線」の世界である程度は見知ったのだとは思う。親や師匠からわざわざ口に出して「こうするものだ」とは教わらなかったと思うけれど、実家では新札を常に用意していて、ご祝儀やお月謝というと、必ずそこから取り出していたのは覚えている。結局私は何も身につかないままどちらもやめてしまったが、「芸事の世界観」というものだけは知らず知らずに吸収していたと思う。

そういう感覚って機会がなければ一生知らないまま終わるだろう。知らなくちゃいけないってもんでもないけれど、たとえばこどもにバレエや日舞を習わせてみて初めて「そういう世界」に触れた人は、たぶんすごく戸惑うはず。発表会で先生に(月謝等とは別に)「お礼」をすることに抵抗を感じる人も少なくない。

こういう人は、「生徒はお金を払っている側なのだからお客でしょ」という価値観が根底にある。先生と生徒は、持っている技術を提供することによって生計を立てている人がいて、その技術を享受したい側が対価を払って教わる、というだけの「対等の関係」、またはむしろ「客側である生徒のほうがエライ」という感覚だ。

でも芸事の先生と生徒はあくまでも「師匠と弟子」の関係であって、先生のほうが絶対的にずっとエライ。生徒はお願いして教えを乞うている立場。

このへんの感覚の差というのは、大人になってからだとなかなか埋まらない。

こういった外からはわかりづらい慣習を、くだらない、無駄、と一蹴する人もいる。そういう人のために明朗会計をうたい、発表会は希望者のみですからお気軽に、を売り文句にするところもある。

でもねぇ、うまく言えないけれど、そういう「慣習」にもやっぱり意味はあって、それをあえて明文化しないところにも意味はあって、そういう方法をとってきたからこそ守られてきた文化、というものはあるのだと思うのですよ。

「あっそうそう、今日お月謝の日でしたねぇ、あら、細かいのないわぁ、お釣りありますぅ?」と財布からクシャクシャのお札を裸で出しても平気、というのは、どんなもんだろうか。たとえそれでバレエの技術は身についても、技術以上に学ぶべきものを失っているように思うのだ。

堅苦しいかもしれないけれど、ここで堅苦しいことを学ばないでどこで学べるというのか。頑固親父もいなければ、知識の宝庫のご隠居さんもいない、学校教師が廊下に立たせれば体罰と言われてしまう世の中、「敬意」または「敬意を持つべき相手へのふるまい」というものを知る場面はものすごーく減っている。私が娘に「芸事」系のならいごとをさせる目的には、そういった上下関係の中でのふるまいについても学んでほしい、というのも含んでいる。いや、実はそんなこと今の今まで考えていなかったんだけど(笑)、書いているうちに、「あぁ、こういうことも学んでほしいって思ってたんだな、私って」と思ってきた。

自分にはならいごとを通して、技術は身につかなくても「残ったもの」があって、それが大人になった今、実はすごく大事だったんじゃないかと感じる場面があって、だから娘にも、何かそういったものが残ってほしい、と思うのだ。
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同感です。
習い事の先生は「師」として敬いたいです、はい。
でも発表会後のお礼とか、中元・歳暮とか、ママ友にきくと
「ウチは全くしてない」って人が多いみたいです。

でもでも、娘の先生たちは、ふつーに「ありがとうございます」って受け取ってくれるので、
そんなに奇異なことじゃない…ですよね!?

私は華道でしたが、最初に正座してご挨拶、次に仏壇へ線香をあげる、というのを自然に学べました。
これは大人になっても役立ちましたね。

色々考えさせられますね~。
教える立場で考えると、今時は中元・歳暮などを贈るご家庭はほぼなし・・・と感じます。ただ、それをきちっとされるご家庭というのは、やはりしつけもしっかりとしていて、きちんとしたご家庭であることは間違いないです。(ある程度富裕層という感もあり)
でも、自分が保護者として子ども達の「師」に何かしているか?といわれると、「No」ですね~。
親がそういう事を一切しないタイプだったのもあり、自然に見ることがなかったのも大きいと思います。で、やはり、月謝以外のことに費用がかかるのが「払わなくても良いものを払う」ような気分になってしまうのですね。
まあ、最近の習い事等で、そういう事を期待する世界はごく限られていると思うので、「師」の側も特に期待することはないと思いますが・・・。

でも、小学生の時バレエを習っていたのですが、その時、親が付け届けをしている家では、発表会のとき、子どもが他の子より目立つ役をもらっていたり、一つ役が多かったり・・・という先生の「ご配慮」があったのは、子ども心に覚えています。悲しい出来事として印象に残っているので、子ども心に、実力ではなく、親との関係性で発表会でのポジションが変わってしまうというのは、悔しかったし、大人の世界の事情を垣間見た気もした経験でした。だから、あまり良いイメージがないんですよね、そういう事に対して。
大人になって冷静に考えてみれば、そういう事が、お互いの潤滑油になり、色々な事をスムースに運ぶ役割りを果たしていたんだろうな・・・と言うことはわかるのですが、やはり、賄賂のような印象を感じずにいられない・・・複雑な感覚があります。
う~ん、私ってひねくれ者なのかな~?

ポジティブな意見でなくて、すみません。

一応、手渡しのお月謝やご祝儀は、なるべく新札で・・・というのは、礼儀として心得ております。(汗)

maki-mariさん
こんな日記を書いておきながらアレですが、現在の習い事では「お中元・お歳暮」は差し上げていないんです…。というか、そういうことに心を砕きたくないからこそ、わざわざシステマティックな「ヤマハでのグループレッスン」を選んだ、というのもあるんですよね~。
発表会後の花束とか、旅行のお土産といった形で、非定期的な贈り物はすることがありますが(これは硬筆も同様、実験は全然世界が違うので何もしていません)。
因習の世界がいやならば、こうしてヤマハやカワイに入れるとか、市民サークル的なワンレッスン500円みたいなところを選ぶとかいった選択肢もないわけじゃないですよね(選択肢の多さに地域差はあると思うけれど)。
それを、コンクールにもばんばん出すようなピアノ教室に入れておいて、「礼儀作法なんかどうでもいいの。プロにさせたいわけじゃないから、楽しく教えてほしい。生徒側の理由だと振り替えレッスンしてくれないなんてサービス悪い」的な発想を持つ方を見るとそれは違うんじゃないかなーと思っちゃうんです。でも「そういう世界がある」ってこと自体知らなければそう思っても仕方ない…のかな。

ところで、私、神仏系の作法には滅法弱いのです。お寺での法要ならばなんとなく前の人を見て真似して…ってできるけれど、個人宅にお邪魔した際にお線香をあげる…となると、冷や汗モノです。正座超苦手です。華道・茶道も大人になってわかる「実益」がいろいろありそうですね。

フランさん
実際問題、往々にしてフランさんの経験のような、「付け届け」になってしまっていることはありますよね。

私も、「これあげるから贔屓してよ」って意味の贈り物は不快です。もうここを見てはいないと思うので書いちゃいますが、このブログに引っ越す前に書いていたホームページに時々コメントくださる方がいました。幼児向けの芸術系教室を開いている方だったようで、ご自身の日記にそこでの生徒さんやその保護者の方について書かれていて、かなりあからさまに「私は生徒さんからの付け届け大歓迎、くれた子は贔屓する」「私もわが子を贔屓してもらいたいから、わが子の先生には抜け駆けで贈り物をしている」と書いておられました。これは生徒に対しても、また、彼女と同じように先生業をしている人たちに対しても冒涜じゃないのかと思いました。
本当にすごく不愉快で、かなり批判的な日記を書いたところ、彼女の日記はアク禁扱いになって、それっきりですけどね。
こんな風に「贔屓してもらうための付け届け」ならば、それは「卑しい」と思います。それを嬉々として受け取って贔屓するならば、教える側はさらに卑しい。私の書いた上下関係、礼を尽くす…というのは、そういうものではありません。

基本に立ち返ると、やっぱりお中元にしろ発表会後のお礼にしろ「感謝の気持ちを表したもの」なんですよ。あげるからこれからこうして、ではなくて「いつもありがとうございます」なんです。

感謝を言うばかりで、こちら側の利益がないってわけでもありません。ありがとうございます、と言われて不愉快になる人はいないですから、気分よく教えていただける。これが第一の効果です。そして、あまり考えたくないですが、「どうせこのクラスは私が熱心に指導しようと手抜きでやろうと見ちゃいない親ばっかり。子ども等なんてニコニコ優しくしていれば喜ぶんだからちょろい。自分の担当のカリキュラムを最低限こなして、コストパフォーマンスよく仕事すればいーや」といった手抜きを抑止する効果もあると思います。良くも悪くも、ちゃんと見ている人がいる、評価する人がいる、と思えば、心をこめて指導してもらえるんじゃないかなぁ、と期待するというか。

んー、うまく伝えられないですが、フランさんのマイナス印象もわかりますよ。でも、そればかりじゃないものがあるんじゃないかな、と思います。
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会社員。家族は夫(鬱回復期か微妙なメンヘラー)と娘(中学生になりました)。

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